認定NPO法人燈台アフガン難民救援協力会(埼玉県北本市)が33年間の国際協力活動を、2020年3月末をもって終了させました。1987年に、パキスタンに逃れて来た多数のアフガン難民の人道支援として医療及び子どもの教育支援を始めました。その後、1990年にはアフガニスタ国内で医療協力と子どもの教育支援を行い、アフガン国内外の困難な状況の中で支援活動を続けてきました。
キリスト教系の市民団体としての先駆的で、アフガニスタンという困難な状況の中で、現地に人材の派遣を続けたきた、埼玉県の代表的な国際協力NGOでした。今までの活動に敬意を表します。
詳しくは下記の燈台ホームページを参照してください。
http://www.jca.apc.org/~todai87/introduction.html#1
支援者の皆さまへ 支援活動終了のご挨拶と感謝のお礼
1979年にソ連軍が突如アフガニスタンに侵攻して、史上最高の550万人の難民が発生しました。アフガン難民の子ども達の多くの墓を見たことをきっかけに、1987年4月パキスタンのクエッタにクリニックを始め、その支援活動は33年になりました。
ソ連軍が撤退すれば支援活動は終了できると考えておりましたが、1992年ソ連軍が撤退しても、『燈台』は支援活動を終了出来ませんでした。アフガニスタンは荒廃し、自力で国を運営出来なくなっており、子ども達は教育や医療を受けられない状況に変わりなく、『燈台』は医療と教育の支援を続けることにしました。
アフガニスタンは共産主義政権から、北部同盟政権、タリバーン政権と移り、2001年9月11日アメリカ同時多発テロが起こりました。その結果、アメリカ軍は10月8日アフガニスタンのタリバーン攻撃を開始しました。『燈台』は新たな支援に多忙を極め、国内の報道関係者への対応にも追われました。
『燈台』の支援活動に困難な2つの要因が続きました。経済上の困難とアフガニスタン国内の治安です。外務省、郵政省などの支援を受けた時期もありましたが、大部分の資金は日本の善意の人々からの献金でした。現在は現地代表がアフガニスタン国内に入ることが全く出来ませんし、送金さえ困難になっております。
33年前は40歳代だった『燈台』の理事達は現在、70歳代、80歳代となり、前理事長羽鳥明は天に召されました。残された理事達の多くの者が病を担うことになり、私、石黒早苗を始め理事の約半数が病を負っております。
ジャグリーの学校は高い大学入学率を続け、アフガニスタンの重要な部署で役割を担っており、高い評価を得ていますが、上記の様な理由で支援活動は困難と判断し、2020年3月で終了することにいたしました。
今後の学校の運営は、現地の人々に委ねられますが、学校の存続と発展を期待し、願うものです。 長い間ご支援いただきました皆さまに、心からの感謝を申し上げます。
NPO『燈台』 理事長 石黒 早苗
燈台の歴史
1979年
12月24日、旧ソ連軍がアフガニスタンへ侵攻。その後、550万人ともいわれる世界最大数の難民が隣国パキスタンとイランなどに逃れる
1980年
アフガニスタン国力ブールに留学していた中川夫妻は、戦火を逃れるため急遽帰国
その後、日本に帰国していた中川夫妻は、アフガンの人々を心配し、リリーフワーカーとしてパキスタンに入り、クエッタ市のアフガン難民の小児の多くの墓を見て、その犠牲を少なくするため、クリニックの開設を決意
しかしパキスタン政府は許可を出さず、開設の条件として、日本の医療機関の保証を要求してきたため、その保証を南福音診療所が引き受けることになった
1987年
パキスタン国クエッタ市において、中川夫妻はアフガン難民の医師、看護師、検査技師、事務長などの協力を得て、小児のための診療所「ヌール・クリニック」を開院。アフガン難民の医療支援活動を開始
第1回『燈台』理事会を開催(12月)
1988年
クリニックの庭にテントを張り、小学生32人で「ヌール難民学校」開校
1989年
パキスタン国カラチ市で内科・小児科・歯科のクリニック「ローシャン・クリニック」開院
1990年
アフガニスタン国モーリスタン郡でクリニックを開院
外務省より「国際開発協力民問公益団体補助金」を、この年より3年に亘って交付される
1991年
難民学校で中学生の教育を開始
郵政省(当時の名称)「国際ボランティア貯金」より補助を受け、クエッタとカラチの難民学校の運営に充てる
1992年
ソ連軍の撒退により、アフガニスタン国は共産主義政権から暫定評議会へ政権が移行
1993年
モーリスタン郡のクリニックに女子校を併設
1994年
パキスタン国のクエッタ市(ヌール・クリニック)とカラチ市(ローシャン・クリニック)の2つのクリニック及びヌール難民学校を継続
1995年
クエッタ市とカラチ市の2つのクリニックを閉鎖。クエッタの「ヌール・クリニック」では、約13万人の子どもたちを無料で診療し救命に尽くした
クエッタの「ヌール難民学校」の生徒数は1,300人を超え、初の高校卒業生を送りだす
アフガニスタン国首都カブール市において、「マラリア・リーシュマニア クリニック」を開院し、診療を開始
1996年
タリバーンはアフガニスタン全領土の4分の3を支配したが、カブールにある「マラリア・リーシュマニア クリニック」に対して、イスラム原理主義に従うことを要求
1998年
アフガニスタン支援グループ(AGS)第4回会合が日本で開かれ、浜田現地代表が出席
1999年
カブールのリーシュマニア年間患者数:6,274人、マラリア患者数:5,957人
2000年
外務省「草の根無償支援」1,300万円を申請
2001年
バーミアンの仏像破壊(3月12日)
アメリカ同時多発テロ(9月11日)
アメリカが、アフガニスタンのタリバーンへの攻撃を開始(10月8日)
『燈台』は、新たに発生した難民対し、「アフガン難民緊急援助実施計画〜総額5万ドル、期間6ヶ月」を立て、直ちに援助開始(10月21日)
パキスタン国ペシャワール市に、臨時に『燈台』現地事務局を設立し、支援を開始
ペシャワール郊外難民キャンプで女医を中心にした移動クリニック運営と新難民への食料・生活物資援助を開始
国際援助組織がカブールを脱出したため、『燈台』のカブール・クリニックに一般救急患者が殺到。そこで緊急医療援助をカブール・クリニックで開始
2002年
クエッタ難民学校はカブール大学への受験資格を獲得
日本外務省の「草の根無償支援資金」を得て、3つの移動クリニックを運営
2003年
クエッタ難民学校から28人(男性25人、女性3人)がカブール大学を受験、全員合格、医学部3人合格、その内一人の女性がトップ合格、クエッタ難民学校は高い評価を得た
埼玉県知事から特定非営利活動法人(NPO法人)として認証された
2004年
埼玉県から「彩の国国際貢献賞」を受賞
アフガニスタン大統領選挙でカルザイ氏が大統領に選出
2005年
アフガニスタン国首都のカブール市に、事務所を設置
難民帰還が進み、クエッタ難民学校を縮小。アフガニスタン国ガズニー州ジャグリーで中高校一貫教育を開始
ジャグリーの市長より、学校に500m四方の土地を無償で提供された
理事会で「2006年より3年間の計画で中高一貫校の校舎建設」を決定
2006年
第一期学校校舎建設:500万円
カブールの「マラリア・リーシュマニア クリニック」は治療薬入手困難の中、治らない他のクリニックの患者も受け入れ、高い評価を受けている
2007年
第二期学校校舎建設::650万円
『燈台』は2007年に設立20年を迎えた
20年間の『燈台』の総収入は401,488,366円、総支出400,296,006円。そのうち助成金は121,680,837円
「(財)国際開発救援財団並びにワールド・ビジョン・ジャパンを支援する会」が主催してチャリティ コンサートを開催。支援金を受ける
お茶の水クリスチャンセンターで、「20周年記念:燈台現地活動報告会+ユーオーディア・チャリティ コンサート」が開催され、150人を超える参加者があった
北本市にてチャリティ コンサートを開催
2008年
第三期学校校舎建設:予算400万円
ジャグリー学校の新校舎が完成(12月)
教室・井戸・グランドを整備し、塀の一部を設置して校庭を確保
ジャグリーで一番立派な建物だと現地での評判はたいへん高い
外務省海外安全ホームページにて、アフガニスタン全土からの退避を勧告
「マラリア・リーシュマニア クリニック」では、完治者が毎月100人を超える
2009年
ジャグリー学校の外観塗装と教室内装が完了
「国際開発救援財団」より全資金の半分の補助を受け、クリニックの資金不足を補填
2010年
市内に政府の無料クリニックが開設され、国の医療体制が整いはじめた
2011年
ジャグリー学校の小学生用の新校舎が完成
クリニックは、薬の入手が困難な状況が続く
2012年
『燈台』の支援活動が25周年を迎えた
ジャグリー学校の生徒数は、前年3割増の623名に達する
政府の無料クリニックは、リーシュマニア症に関する治療の知識が低い。『燈台』のクリニックは患者からの再評価を受け評判がさらに高まる
2013年
首都カブールでテロ活動が活発化し、都市内にも危険が及ぶ。近年では最悪な状況で1年間に死亡した民間人は、子どもが561人、女性が235人
2014年
資金不足と現地代表への危険度が増したため、2014年9月にクリニックの閉鎖を決定
燈台ホームページより